風でそっと揺れるその1枚の布には、長い時間をかけて育まれた、日本の文化や美意識が込められています。暮らしの中に自然とあるのれんですが、その歴史を紐解いてみると、様々な日本の教養に触れることができます。その変遷を谷峯蔵氏の『暖簾考』になぞり、そこへ新たな解釈を加えて辿って行きます。のれんの起源のれんの始まりをはっきりと特定するのは難しく、通説では弥生時代に定住生活が始まった頃、埃や風を防ぐために掛けられた布が原型だとされています。縄文時代にはすでに布を織る技術が存在していたことを考えると、のれんに類するものが日本人の生活に古代から取り入れられていたことが推察されます。のれんが歴史上、はじめてその姿を現すのは、平安時代後期に高僧・命蓮の説話を描いた絵巻物『信貴山縁起絵巻(しぎざんえんぎえまき)』の中です。そこには絞りの様な模様のある生地に割れ目の入ったのれんが描かれています。平安時代の庶民の生活は質素で、農民は主に竪穴式住居、京でも簡素な町屋での暮らしが一般的であり、同じく平安時代の公家の年中行事を記録した『年中行事絵巻』にも描かれる通りこの時代ものれんは日差しや埃を防ぐ実用的な道具でした。暮らしの中で何気なく用いたこの布の道具は、日本人の根底にある「間」の感覚と深く結びつき、のれん文化を形成して行きます。「間」とは連続して存在する、ものとものの間隔で、日本独特の時空間の捉え方です。それは余白や小数点とも言い換えることができ、軒・庇・縁側の様にひとつの空間の平面上を層で構成する概念です。内と外とを明確に区切らず、自由に行き来ができるこの日本独特の「間」の感覚をのれんは内包しているのです。引用元:「信貴山縁起絵巻」国立国会図書館蔵 「暖簾」の名がつく 鎌倉時代ののれんも、未だ風や埃を防ぐための実用的な布の間仕切りとして使用されていましたが、「暖簾(のれん)」という言葉がここで登場します。この言葉の由来は、中国の禅宗とともに伝わった「暖簾(ノンレン)」注1)という言葉で、それが日本に伝わり、訳されて「のれん」となったのです。「暖簾(ノンレン)」は元の時代の禅の書物である勅修百丈清規(ちょくしゅひゃくじょうしんぎ)に載ったのが最初であるというのが通説ですが、最近の研究ではそれ以前の宋の時代ですでに暖簾と同じ意味を持つ、烘簾(コウレン)という言葉が見つかっており、従来の通説よりもより古くから暖簾を指すことばはありました。中国の暖簾(ノンレン)は禅寺で簾の上に垂らしたり、入口にかける寒さ対策として利用した布を指し、形状も下に空間のある日本ののれんの様な仕様ではなかった様です。また、広告としてののれんの様に間口に掛ける布も古代中国の一部で用いられていたようですが、これは中国の原初的な広告の酒旗と同じく青と白の生地を交互に縫い合わせたもので、日本の様に紋や意匠を染め抜いたものではなく、また店の価値を示す性質のものではありませんでした。その代わりに中国では招牌(ショウハイ)や帳子(コウシ)注2)と言った看板が発展し、「暖簾」という言葉の伝来元ではあるものの日本の様な「のれん文化」へと発展はしませんでした。※「のれん」は文化としての意味を指し、「暖簾」は風よけなどの道具を指して記述します。12世紀北宋都市の光景や人々の暮らしを描いた『清明上河図』。酒旗と共に暖簾の様なものが入口に掛けられている(画像左・左下)。のれんの誕生現在のように店の目印としての役割を持つ文化が本格的に始まったのは、室町時代中期から後期にかけてです。鎌倉時代までは、一部で意匠を染めたものも存在したものの、のれんは主に風や埃を防ぐための道具でした。しかし、室町後期になると海外との貿易が盛んになった京や堺で、商人たちが自分の店を他と区別するために広告需要が高まり、のれんに家紋を染め抜き活用され始めました。当時は現代のように皆が文字を読み書きできるわけではなく、貴族や武士に限られていたため、扇の形を染めた扇屋や鶴を描いた鶴屋など、単純で直感的な意匠が一般庶民への情報を伝える手段として受け入れられたのです。ここから「間仕切り」に加えて、目印としての機能を備えた今ののれんが発展して行きます。江戸時代初期の京都の市中と郊外を描いた『洛中洛外図屏風』(船木本)。多くののれんが描かれているが、直感的な意匠のみで文字はない。出典元:国立国会図書館江戸時代とのれんの進化江戸時代に入ると、のれんは大きく進化・普及します。江戸の町が徳川幕府の開府によって大規模に発展し、全国から商人が集まる一大消費地となると、商店間の競争が激化し、のれんは他店との差別化を図るための広告媒体として一気に普及しました。その頃ののれんが連なる江戸の町並みは壮観で、のれんが街を彩り「景観」を生んでいました。この時代ののれんの意匠を見ると、江戸の商店が染め抜く屋号は、京や堺が炭屋や米屋など業種から定着したのに対し、各地から集まった商店は、地域名を冠した屋号が多く見られます。たとえば、近江屋や伊勢屋など、商人たちは自分の出身地や地域の名を屋号として用いました。特に、伊勢商人は多く進出し、江戸の大伝馬町には伊勢の木綿問屋が軒を連ねていた様子は、浮世絵にも多く描かれています。その中で広告媒体としてのれんの需要を拡大したのは1673年に日本橋で創業した、三井越後屋呉服店の三井高利です。のれんに「呉服現金安売りかけ値なし」注3)という画期的な商法を謳い文句として大きく染め抜きました。以降は競う様にのれんに文字を入れたり、広告の規模が大きくなって行きます。元禄(1688〜)の日本橋の問屋街を描いた『熈代勝覧』(きだいしょうらん)という絵巻物には、軒を連ねる商店のほとんどが、のれんを掲げている様子が描かれており、のれんが町と一体化して勢いのある街の活気が伝わります。『熈代勝覧』1805年頃の江戸後期の日本橋通りを描いた絵巻物。世界有数の都市となった江戸の問屋街の活気ある様子が描かれており、そのほとんどの商店にのれんが掲げれている。出典元:日本橋ガイド https://nihonbashi-info.tokyo/kidaishoran/のれん文化のいま明治時代以降、火災や関東大震災などの大災害によって多くの建物が失われ、再建された街並みでは西洋風の建築が主流となり、のれんは次第に街から姿を消していきました。しかし、江戸時代に屋外広告として確立し、店の顔となったのれんは、現代に至るまで、その基本的な形を大きく変えることなく、今日まで続いているのです。弥生時代に埃よけとして始まり、平安時代には間仕切りや装飾品としての役割を持ち、鎌倉時代に入って意匠が加わり、室町時代に広告としての機能を発揮し始めたのれん。江戸時代に至ると現代の形がつくられ隆盛を極めると町の景観を形成し、日本の独自文化として成長しました。そこには、明確な規制や規定がなく、自由だからこそ、時代とともに柔軟に変化し続けてきました。その結果、他国にも存在する布やサインではなく、独自の文化となったのです。この内と外とを完全には隔てない「間」の感覚は、日本独特のものであり、現代では海外から見たときの「日本の印」と認識されるなど新しい価値を持ち始めています。注1)暖簾(ノンレン):中国の発音ではナンレンであったが、それが訛りノンレンとなった。注2)招牌:中国の伝統的な屋外看板。主に文字のみで構成されている。注3)呉服現金安売りかけ値なし:それまでは掛け値・掛け売りが主であった中、定価・現金払いでの商売を始めた。参考図書:暖簾考/谷峰蔵守貞漫稿/京雀図説日本広告千年史 : 古代・中世・近世編/大伏肇見立ての手法/磯崎新東京織物問屋史考/白石孝中村 新1986年東京生まれ。有限会社中むら代表取締役。 大正12年から平成17年まで着物のメンテナンス等を請負っていた家業の中むらを再稼働し、平成27年よりのれん事業を開始。日本の工芸や手工業の新たな価値づくりに挑戦しており、職人やクリエイターとともにのれんをつくるディレクターとして活動。