のれんには、厳密な規律や規制は存在しません。形状、色、素材など、その時代や地域、人々の創意工夫によって自由に発展してきました。しかし、のれんが大衆の暮らしで育まれる中で一定の様式や意識が汲み取れます。また、地域で独自に発展したのれん文化も生まれました。 のれんの形状江戸時代までは和装の時代であったため、生地は呉服の着尺幅(36センチ程度)注2)が一般的であり、のれん巾も現在より少し細く分かれていました。そのため、半間の間口には3巾ののれんが掛けられており、高さに於いてはおよそ113cm、鯨尺注2)で言うところの「3尺」が基準でした。しかし、江戸時代の絵巻物を見ると、間口に合わせた高さが見受けられ、これはあくまで目安であることが伺えます。また、巾の割数に於いても奇数が紋を配置する上では納まりがよく、現代でも割り切れないことから縁起が良いと好まれますが、江戸時代の浮世絵をみると、4巾や偶数割れののれんも度々見受けられ用途に応じて扱われていました。そして、上記高さの基準をもとに、半分の丈のものが半のれん、短い丈で横長のものは水引のれん、日光を防ぐ丈の長いのれんは日除けのれんなど、寸法に合わせて俗称がつきました。1657年の明暦の大火からの江戸の都市の再建が進む中でより商売も活気づき、のれんは商人たちの間で一層普及しました。この時代からのれんや看板の大型化が進み、幕府はこれに対して奢侈(しゃし)禁止令を発布し、過度な装飾や大型の広告を取り締まる動きがありました。また、素材に関しても「縄のれん」や「球のれん」など、素材そのものの特徴を名前にしたのれんも作られ、工夫されていました。特に縄のれんは、居酒屋で虫よけとして機能をする為、居酒屋の目印となっていました。(左):歌川国貞 白木屋前の三美人 (引用元 江戸東京博物館デジタルアーカイブ(https://www.edohakuarchives.jp/detail-967.html))(中):近世職人尽絵詞(引用元 国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-83?locale=ja))(右):鈴木春信 見立山吹の里(引用元 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/433674)のれんの色のれんの色は、明治時代までは藍を使った濃紺が最も一般的な色でした。手堅い商売をしている大多数の店が濃紺の地に屋号を染め抜いたのれんを掲げ、町に連なっていました。しかし、一方で藍以外の草木や墨などの天然素材を使って、それ以外の色に染めたのれんも存在します。たとえば、菓子屋や薬屋は砂糖を想起させる白に墨、煙草屋は茶、遊郭では柿色が用いられ、色によってその店の業種を示していました。吉原の遊郭を描いた浮世絵を見ると、多くの柿色ののれんが描かれています。しかし、これは厳格な規律というほどのものではありません。唯一、禁色という点では紫色は公家の色として特別視され、一般には使うことが制限されていました。しかし、紫も江戸時代に一部で、金融機関から多額の借金をした店が、その証として紫色ののれんを掲げるという慣習が存在していた様です。こちらも厳密な規律がある訳ではなく、現代とは違い色の素材に制限がある中で、各々でのれんの色い店先に掲げていました。以下の絵は江戸後期の紺屋注3)=染物屋がのれんなどを染めている光景です。左の長板では呉服の紋様を型で糊置きし、右側では藍瓶に生地を浸して染めています。2階では染め上げた生地を乾かしていることが伺え、雁金を染め抜いたのれんがはためいています。(左):(中):近世職人尽絵詞(引用元 国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-83?locale=ja))(右):江戸図屏風_日本橋室町 六曲一双江戸図屏風左隻二扇 千代田区図書館蔵花のれん・花嫁のれんのれん文化には、店にかけるものとは少し性質の異なる文化に「花のれん」と「花嫁のれん」があります。江戸時代の興行界では客から受ける祝儀を花と呼んでおり、のれんも贔屓(ひいき=ファン)から送られるものは花のれんと言いました。これは江戸で生まれた文化で、京阪の役者が江戸に興行に来た際に、花のれんを贈った記録が残っており、ときには役者自らが芝居茶屋などへ贈ることもあった様です。現代では役者などが公演中に自身の楽屋にかけるため、楽屋のれんと呼ばれていますが、江戸時代では芝居茶屋・髪結床などのより公共的な場所に掛け、役者や贔屓が宣伝の為に店へ贈っていました。当初は文字のみの単純な意匠でしたが徐々に派手で絵画的なものとなって行き、現代でもその流れは続いており、絵画的で目を惹く楽しいデザインが多くあります。 もう一方の「花嫁のれん」は、幕末から当時の加賀藩(いまの能登・加賀・越中)の地域に伝わる、嫁入りの文化です。花嫁が嫁入りをするとき、嫁ぎ先の仏間に加賀友禅で染められた華やかなのれんを掛け、花嫁はそののれんをくぐり嫁いで行きます。こちらも一般的なのれんとは異なる儀式的なのれん文化であり、のれんをくぐるという所作を通じて、新たな向こう側へと進んで行きます。江戸時代の花のれん:江戸風俗野史 花嫁のれん:DISCOVER NOTO (https://discover-noto.com/3292/)のれんの亜種平安時代の寝殿造りの住宅空間の仕切りとして、のれんの亜種とも言える衣桁(いこう)や几帳(きちょう)が多く用いられていました。寝殿造とは平安貴族の住宅建築様式であり、建物の中心に寝殿という開けた広間があるのが特徴で、この空間は平安時代を象徴します。この光景はスタジオジブリの「かぐや姫の物語」などのアニメ作品などでも多く描かれています。衣桁とは自立式のT字の枠に着物をかけ間仕切りや装飾品としたもので、几帳もそれに類する布を掛けた自立式の間仕切りです。日本の伝統的な建築空間は固定した壁はなく、空間を平面の組み合わせで考えられています。厚い壁で物理的に仕切ることは重視されず、薄い平面を重ねることで光や視線を制御していました。この平面上の層、用途に応じて空間を仕切りる可動性も「間」の文化のひとつです。平安貴族の暮らす空間に華やかな衣桁や几帳が描かれている。引用元:日本絵巻物全集第1集 源氏物語絵巻 国立国会図書館蔵のれんの素材のれんの原型が見られた弥生時代の素材は当時の衣服である貫頭衣(かんとうい)にも用いられていた苧麻(からむし)の布、若しくは萱・稲藁で編まれていましたが、その形状は現代の暖簾とそれなりに近しいものであったのではないのかと考えられます。しかし、布は当時かなり貴重なもので、綿栽培が発展する江戸時代までは苧麻や外来品の綿は貴重で、絹は朝廷内で貨幣と見なされる程でした。江戸時代になると木綿栽培が広く普及し、扱い易い木綿はここから衣類やのれんに多く用いられ、主流となりました。その後の明治時代からは、西洋から織機も輸入されたことで織物技術の発展が進み、戦後にはポリエステル生地も普及しました。また、当初はのれんの染色は草木や土などの天然素材で布や糸を染めてましたが、明治初期にヨーロッパで開発された化学染料が日本でも扱われ始め、以降は様々な色彩ののれんが染められる様になりました。現代では技術の進歩による化学繊維へのデジタル染色と、天然繊維への工芸的な染色に分かれますが、その両者に良さはあり、店の顔を飾るのれんをつくる選択肢が増えたことで多様なのれんが生み出されています。注1)着尺巾:着物を仕立てる為の反物の幅。36~38cm程度の幅であり、呉服の染色製法はこの幅に則して染めて行く。注2)鯨尺:1885年に日本の基準がメートルになるはるか前に、和裁用に用いられてきた単位。1尺は37.88cm。鯨の髭でものさしをつくったことに由来する説があるが定かではない。注3)紺屋(こうや・こんや):染物業を営む事業者。藍を染めることから、広く染物屋を指す意味になりました。地域の紺屋町は染物街の名残です。参考図書:暖簾考/谷峰蔵守貞漫稿/京雀図説日本広告千年史 : 古代・中世・近世編/大伏肇見立ての手法/磯崎新東京織物問屋史考/白石孝中村 新1986年東京生まれ。有限会社中むら代表取締役。 大正12年から平成17年まで着物のメンテナンス等を請負っていた家業の中むらを再稼働し、平成27年よりのれん事業を開始。日本の工芸や手工業の新たな価値づくりに挑戦しており、職人やクリエイターとともにのれんをつくるディレクターとして活動。