日本の広告史は明治時代以降に焦点を当てられることが多く、江戸時代以前の広告についてはあまり語られることがありません。しかし、明治時代に「広告」という言葉が生まれる以前、広告の中心はのれんや木看板でした。特にのれんは江戸時代に大きく進化し、街の風景となる「景観広告」とだったのです。屋外広告の起源日本の広告の起源は古代にまで遡ります。仏教の布教活動や皇都の拡張に伴い、公共の場で行われた「ひろめ」と呼ばれる広告活動がその最初とされています。そこから江戸時代に至るまで、広告を示す言葉は「告知」や「告篠」と呼ばれており、明治5年に初めて横浜毎日新聞で「広(廣)告」という言葉が初めて使われ、定着しました。そして、日本における屋外広告の起源は、平城京時代の商取引の場である「市」で用いられた商品名を記した木の板の「標(ひょう)」であると考えられています。当時常設の店はなく、商人たちが集う市が主でした。そこで商品名を記して使用したこの標が、後ののれんや看板の原型なのです。やがて、商品を展示する「見世棚」が発展し、そこから「店」という概念が生まれました。世界を見ると、屋外広告の起源は更に古く、古代バビロニアで商店主たちが看板を掲げたという記録が残っています。こうした広告の歴史が世界各地で進化していく中で、日本ではのれんや木看板を主とした独自の屋外広告文化が発展していきました。日本における屋外広告の発展鎌倉時代でも、都市と呼べる地域は奈良、京都、鎌倉、博多といった限られた場所に限られており、商業活動もまだ限られたものでした。この時代、商売人や職人たちは「座」と呼ばれる同業者組合のもとで活動していました。「座」制度では、一業種一店のみが許可されていたため、競争が少なく、広告やのれんの役割はそれほど重要視されていませんでした。しかし、このあたりから農村部にも貨幣経済が浸透し、商業の萌芽が見られたため、徐々に職人や商人たちの活動が活性化していきました。室町時代に入ると、商業活動がさらに活性化し、広告の必要性が高まっていきます。この時代には、特に京や堺の商人たちの間で、のれんや看板に商売を象徴する意匠や紋を入れる習慣が広まりました。識字率が低かった当時、文字だけで情報を伝えるのは困難であったため、分かりやすいアイコンで視覚的に情報を伝える役割を果たしていたのです。当時の京都の街並みを描いた「洛中洛外図屏風」には、多彩なのれんが描かれており、商店の前に掲げられたのれんが街を彩っていた様子がうかがえますそこには、扇・数珠などの商品の絵を染めたのれんが描かれており、文字はありませんでした。ここから、のれんは商人たちにとって重要な屋外広告としての役割を担う様になります。江戸時代初期の京都の市中と郊外を描いた『洛中洛外図屏風』(船木本)。数珠や鶴の意匠や紋など多くののれんが描かれており、直感的な意匠で文字はない。引用元:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-11168?locale=ja#&gid=null&pid=1)江戸時代ののれんと木看板の普及江戸時代に入ると地域経済から全国経済に商売は大きく発展しますが、初期は依然として経済の中心は京や堺であり、新たなに開拓された江戸は新天地でした。その為、京や堺のように既に競争が固定化された地域とは異なり、自由な競争ができる江戸へ全国から商人が集まり急速に発展しました。この自由競争の中で、各店は他店との差別化を図る必要があり、のれんや木看板が重要な広告媒体として機能し始めたのです。特に、1657年の明暦の大火以降、都市の再建が進む中で商業活動はますます盛んになり、全国からの出店は更に加速し、よりその規模は拡大し、日本の商売の中心となって行きます。それにつれて、のれんや木看板の需要も高まり、看板の大きさや豪華さを競う様になって行きました。その抑止として、幕府の奢侈禁止令注4)に抵触し、規制の対象ともなった様です。その後、世界有数の大都市となった江戸の街では、ほとんどの商店がのれんを店先に掛けていました。それは、名所江戸百景注6)に多く描かれるような大きく家紋を染め抜いた大胆なのれんが連なり、他の国にはない唯一無二の景観を生み出しました。歌川広重/東都大伝馬街繁栄之図(とうとおおてんまがいはんえいのず)1830~1844引用元:東京都図書館三井高利の革新的な広告戦略江戸時代中期にのれんの発展に大きな影響を与えた人物が、三井グループの創始者である三井高利です。三井高利は、のれんに商売のサービスやメッセージを染め抜き、店の宣伝を行うという当時は革新的な手法を導入しました。特に、彼が考案した「現金安売りかけ値なし」という商法は、当時の商業界に衝撃を与え、のれんを広告媒体として飛躍的に発展させました。ここから、庶民の識字率も向上したこともあり、のれんに文字を入れる様になります。また、三井高利はのれんだけでなく、引札(チラシ)を使っての宣伝活動も行い、その効果を測定するなど、現代のマーケティング手法に通じる広告戦略を展開していました。三井高利の広告戦略は、江戸の商業に大きな影響を与え、のれんの進化・普及にも大きな影響を与えました。ちなみに、この頃の商標や屋号などの広告のグラフィックデザインは主に絵師が行ない、コピーライティングは戯作者(げさくしゃ)注7)が行っていました。1781年頃には専門的な看板屋が誕生し、需要の高まりが見て取れます。三井呉服店陳列場の図(右)/熈代照覧(きだいしょうらん)(左)引用元:アドミュージアム東京(https://www.admt.jp/collection/item/?item_id=26)/熈代照覧 日本橋ガイド建築様式の近代化と屋外広告明治時代に入り、近代化に伴い西洋の技術・文化を取り入れた石造建築が象徴として普及して行き、官公庁や商業施設で石造建築が増えて行くと、街の風景も移り変わっていき、のれんや木看板の数は減って行きます。明治5年に銀座で大火が発生し、その後に3〜4年で煉瓦造りの西洋風の建物群が再建された街並みでは、煉瓦づくりの建物にのれんが掲げられる異質な光景も見られました。銀座や駿河台では、木造の越後屋にはのれんが掲げられていましたが、石造の銀行ではのれんが見られなくなり、近代化とともにのれんは少しずつ姿を消していったのです。しかし、近年ではデジタル広告など多岐に渡る現代広告の中で、のれんは再びその価値が見直されている動きを感じます。のれんは、無機な広告物ではなく、日本の長い歴史の中で育まれた独自の文化であり、「日本の広告」となっているのです。注1)市:奈良時代に制定された大宝律令による、中央集権の律令制度としての一部。当時、商品の売買は貴族が管理し常設ではなく定期の市場であった。注2)この通説には批判があり、平城京の広告は中央からの示達なので広告という定義からは外れるという論評はあるが、原型としてはこの時代から始まった。注3)明暦の大火:1657年に起こった大火災。木造建築且つ建物が隙間なく並んでいた為、火の回りが早く江戸の街の大部分を焼き尽くし、人的被害も甚大であった。ここから都市計画及び防災意識が強まり火消しが制度化した。注4)奢侈禁止令:江戸時代に経済的・社会的な秩序を維持する為に制定した贅沢を禁じた法令。この制約の中で、江戸小紋など一見するとシンプルだが手の込んだ嗜好品などの「粋」なものが生まれた。注5)三井高利:三井グループの三井家の家祖。松坂の商人であったが、画期的な商法で一躍江戸の大店となる。また、P・ドラッカーも「三井家の人間によりマーケティングは発明された」という程広告・マーケティング戦略に長けていた。注6)名所江戸百景:歌川広重が1856年〜1858にかけて描いた連作で江戸の名所や人々の暮らしを描いてり、おおくののれんが登場している。「大はしあたけの夕立」はゴッホがオマージュしたことでも有名。注7)戯作者:江戸時代後期、和漢の伝統的な文字に対し、洒落本・滑稽本・人情本など大衆向けの作家。多くの作家は自身の文芸以外にも職を持ち、絵師・コピーライターなどを兼業していた。注8)擬洋風建築:明治以降の近代化に伴い、洋風建築を取り入れながらも、日本の特徴や職人わざを取り入れた和洋折衷の建築物。参考図書:日本広告千年史日本屋外広告史世界の広告史アドミュージアム東京 AD・STUDIES土地総合研究 2008年春看板ものと人間の文化史ホーロー看板広告大図鑑西洋の看板 : サイン・シンボル・フォーム江戸の看板 松宮三郎中国古代絵画にみられる広告の様態江戸期の広告 広告「文化誌」守貞漫稿京雀幕末明治の引札と画入り暦中村 新1986年東京生まれ。有限会社中むら代表取締役。 大正12年から平成17年まで着物のメンテナンス等を請負っていた家業の中むらを再稼働し、平成27年よりのれん事業を開始。日本の工芸や手工業の新たな価値づくりに挑戦しており、職人やクリエイターとともにのれんをつくるディレクターとして活動。