のれんは江戸時代にその文化が成立し、店の在り様を示す象徴となりました。そして、潜るという所作を通じて人と空間とを結び、現代まで日本独自の文化として継承されてきました。ここでは、他文化圏の屋外広告文化とのれん文化とを比較して再考します。明治期の近代化と看板の進化明治期に入ると日本は西洋文化を積極的に取り入れました。建築様式は木造から石造、鉄造へと移行し、それに伴い広告媒体も木製看板 注1) からガラスや金属製へと変化していきます。また、商業も一層活性化していく中で屋外広告の需要は高まって行くのです。江戸時代はのれんと木看板の最盛期であり景観をつくっていましたが、明治以降の近代化に伴い屋外広告の在り様は大きく移り変わって行きました。のれんは日本独自の屋外広告ですが、日本に多大な影響を与えた西洋と中国ではどのような屋外広告文化が発展してきたのでしょうか。その違いを見ていきます。ヨーロッパの屋外広告文化:吊り看板と紋章の旗ヨーロッパの屋外広告は、古代ローマにその原型を持つと言われています。例えば、飲食店を示すために描かれた葡萄の房の絵などがその原型でした。大きく発展をしたのは江戸時代の日本と類する産業革命期であり、商業が発展すると広告の需要は拡大して行き、それに伴い屋外広告も進化・普及をして行きます。識字率が低かった時代は直感的なアイコンの吊り看板が多くあり、このあたりの時系列と変遷は日本と近しく、世界的な商業の発展の流れともに屋外広告の需要も広がって行きました。しかし、日本がのれんや木看板 注1)であったのに対してヨーロッパの看板は鉄で作られたものが多くあります。これは中世に鍛造技術が発達したのに加え、職人組合(ギルド)が技術を示す意味合いがあり、平面的な日本の広告に対し立体的で精緻なデザインが多くありました。また、モチーフも居酒屋は葡萄の房、本屋は聖書の看板など異なる文化による差異が見て取れます。しかし一方で、旗やペナントといったのれんと同様の布製の屋外広告も用いられていました。これらは#2で述べた貴族の紋章文化に由来するものであり、店に掛けられると王室御用達を意味し、祭典では貴族の身分を示すサインとして用いられていました。しかし、それは主な広告媒体ではなく、鉄製の看板ほど商店で広く普及しているものではありませんでした。それを示す記録として、1860年に来日したプロイセンの全権特命公使は『太陽光を防ぐ青い幕』、1876年に来日したギメ美術館の創立者のギメは『くすんだ色調に、鮮やかなデッサンのあるこの種の旗』と呼び、のれんが西洋にはない独特な文化というのが伺えます。引用元:西洋の看板 : サイン・シンボル・フォーム 中国の屋外広告文化:文字主体の招牌文化それでは、より近しく多分に文化の影響を受けてきた中国はどうでしょうか。#1で述べたように、「暖簾」の語源は禅寺の寒さよけとして簾の上にかけた木綿の布である暖簾(ノウレン)からきています。しかし、結論から言うと、日本の様なのれん文化は中国では育まれませんでした。 中国でも古代より布の屋外広告は用いられてはいましたが、主な屋外広告は「招牌(ショウハイ)」でした。招牌は、「幌子(コウシ)」と扁額(ヘンガク)を加えた3種からなり、招牌は店先に掲げる縦看板の屋外広告、扁額は店内や門の上に掲げる文字を記した装飾のない平らで薄い文字看板、幌子は店先などに掲げる商品の模造品や絵を描いた立体的な広告であり、これらの広告が発展して行きました。全体的な特徴は文字を主体としたデザインである点であり、日本や西洋多文化が直感的なアイコンが多かった時代、中国は読み書きの普及が一歩早く、文字との関わりの強さを示しています。(左)招牌 (中)幌子 引用元:支那の幌子と風習 (右)扁額 引用元:西日本新聞また、一部で用いられていた広告としての機能を持つ暖簾の様なものは巾[布]簾[帘](ジンリェン)といい、竹の簾と区別した布製の簾を指します。巾簾は北宋(960~1127)の時代には記録が残っており、北宋の都・開封を描いた『清明上河図(せいめいじょうがず)』には白と青の布を交互に用いた酒旗としての巾簾が、18世紀の蘇州の街を描いた『姑蘇繁華図(こそはんかず)』には文字の入った横幕の様な巾簾が描かれています。その様式は日本とは異なり色布若しくは刺繍した布を用いる為、日本ののれんのような染抜きではなく、また文字は入れても紋を入れるものはなかったようです。この様に、巾簾は日本とは少し性質の異なるものであり、のれんのように商店の象徴やブランドを表す文化には発展せず、中国では文字主体の看板が主流となって行きました。(右)清明上河図:青は清酒、白は濁酒を表し、視覚的に情報を伝える役割を果たしていた。(右)姑蘇繁華図:中央に濃紺の幕が描かれている。引用元:みんなの世界史一例として、山崎豊子著・『暖簾』が1986年に中国で紹介された際の翻訳の注釈に、「暖簾は江戸時代以降、商人の入り口の前に掛ける屋号を印字した短い布のカーテンである。これを用いて経営権や信用を示す。わが国解放前(1949年以前)の老舗の扁額に相当する」との記述があります。このことから、のれん文化は日本独自のものであり、中国では異なる文化として招牌が発展して行ったということが言えます。 のれん文化の独自性のれんが近代まで日本の街並みをつくっていた様に、ヨーロッパでは装飾的な鉄製サインが石造りの街並みを彩り、北京や香港では街にそびえる大きな文字看板が街を活気づけ景観広告となりました。それらはどれも街並みに連なることで特有の風景を形成し、その文化を反映した存在と言えます。しかし、のれんはその枠を超えて店の歴史などの無形の資産を象徴するものとなりました。また、のれんは屋外広告であると共に空間を彩る装飾にもなり、内と外とを緩やかに仕切る境界の役目ともなります。この様な象徴的で多重な意味や機能を持つ屋外広告文化は他の文化圏にはありません。それは、のれんが日本人にとって重要な「間」#1の文化の上に成り立っている為だと言えます。のれん文化は日本の暮らしで育まれる中で、他国の文化にはない特異な発展を遂げてきたのです。注1)看板:日本の看板は当初鑑板・簡板と呼ばれており、いずれも木がついていた注2)ホーロー(琺瑯)看板:金属の地に釉薬を塗り焼成し焼きあげ強度をあげた看板。明治期から昭和の末期まで主流の看板であったが、商品サイクルの短期化や店舗の大規模による需要縮小によりアルミやステンレス製の看板へと移り変わりにより終焉を迎えた。参考図書:日本広告千年史日本屋外広告史世界の広告史アドミュージアム東京 AD・STUDIES土地総合研究 2008年春看板ものと人間の文化史ホーロー看板広告大図鑑西洋の看板 : サイン・シンボル・フォーム江戸の看板 松宮三郎中国古代絵画にみられる広告の様態江戸期の広告 広告「文化誌」守貞漫稿京雀幕末明治の引札と画入り暦中国における広告の伝統中村 新1986年東京生まれ。有限会社中むら代表取締役。 大正12年から平成17年まで着物のメンテナンス等を請負っていた家業の中むらを再稼働し、平成27年よりのれん事業を開始。日本の工芸や手工業の新たな価値づくりに挑戦しており、職人やクリエイターとともにのれんをつくるディレクターとして活動。