江戸時代、木綿を藍で染めた深い青ののれんが街に連なり、景観を形成していました。この光景は多くの浮世絵にも描かれ、日本の原風景のひとつとして刻まれています。当時、染め屋は藍染めを主としたことから「紺屋(こんや)」と呼ばれ、庶民の暮らしを彩る布を染める重要な役割を担っていました。■紺屋とは?紺屋(こんや・こうや)とは江戸時代に染物を生業とする事業者及び職人を指します。現在でも日本の各地に紺屋町という地名は当時に染め屋があった区画の名残なのです。この紺屋という名称は主に江戸時代に生まれ、それは木綿の普及と密接に関係しています。古代では、染色は貴族や武士といった上層階級のものであり、日本で庶民に染色文化が広まったのは江戸時代以降のことでした。古代の染料には、紅花や藍、蘇芳などの外来植物や、栗や杉といった在来の草木が用いられ、どれも薬用植物という共通点があります。これは、色が装飾のためだけではなく、祈りや信仰と深く結びついた文化あることがいえます。江戸以前の庶民は、藍草を直接麻糸や布に擦り付けて染めるといった原始的な方法をとっていましたが、江戸時代中期になると、徳島を中心に蓼藍(たであい)の栽培が盛んになり、蒅(すくも)注1) を用いた本格的な藍染めが大衆のあいだでも広がっていきました。紺屋の染める日本の藍染めは、浸染(しんせん)という藍の染料が入った甕に生地を浸して染める技法が主でした。藍の葉を発酵させた蒅で染液をつくり、そこへ浸した布を酸素に触れて酸化させることで発色させる手法です。奈良時代に中国・朝鮮から伝わったとされるこの技法は、やがて日本独自の進化を遂げ、透明感と奥行きを併せ持った世界にも類を見ない深い青の「日本の藍色」を生み出すようになったのです。(左):蒅づくりの寝せ込み。藍の葉を発行させている。(中):紺屋染物之図引用元:天半藍色:三木100年のあゆみ (左):紺屋の図/葛飾北斎 引用元:東京都図書館■木綿以前の布戦国時代に木綿栽培が全国で普及し、木綿が普及する以前の庶民の衣服は主に苧麻(ちょま)や大麻(たいま)、そして一部で葛などの植物の繊維が原料でした。絹は高級品であり、貴族や武士が着用する身分制衣料であった為、庶民が身に着けることはなく、自生する植物で布をつくり、纏っていました。現代では麻は植物の長繊維からつくる生地を指す広義の意味で使われますが、狭義の意味では大麻を指します。本来は大麻(ヘンプ)・亜麻(リネン)・苧麻(ラミー)・黄麻(ジュート)などはそれぞれ別々の植物であり、その中の苧麻が衣服の主な素材でした。のれんが歴史上初めて登場する信貴山縁起絵巻にも、のれんの前で苧麻を績む注2) 女性が描かれており、当時ののれんの素材は苧麻だったと推測されます。その後、木綿の普及により主たる布は木綿に置き換わりましたが、嗜好品や夏の衣類として苧麻は重宝されました。信貴山縁起 引用元:国立国会図書館■木綿の魅力木綿がいつ日本に伝来したかは明らかではありませんが、鎌倉時代には宋からの輸入記録が残っています。当初は高価な外来品でしたが、戦国時代には栽培が全国に広がります。その背景には、戦で用いる衣服や幟、陣幕などへの需要がありました。丈夫で染めやすく、機能的な木綿は、軍事面から民間へと、次第にその用途を広げていくのですが、この軍事による発展の変遷は、のれんの亜種ともいえる幕や、武士の家紋の発展も同様のことがいえます。※#2参照その後の江戸時代に入ると一気に大衆へも普及し、衣服の中心は苧麻から木綿へと移り変わります。木綿が大衆へと広がった大きな要因としては「着心地が良く」「染め易く」「暖かく」、そして、圧倒的に「生産効率が良い」ということが挙げられます。苧麻は通気性が良く夏には良いのですが冬には適さず、古代では何枚も単衣の苧麻を重ね着していましたが、それに比べ綿は弾力があり保温性もあり丈夫なことから作業着としても適していたことで大衆に厚い支持を受けました。また、染色加工についても木綿は染まりが良く、藍との相性も良い為、藍染めの技術も発展し、藍で染めた木綿は庶民の暮らしになくてはならないものとなったのです。木綿は麻と違い、栽培・精錬・糸作り・織が分業制作が可能。(左):引用元:八尾市歴史民族資料館 (中・右)綿繰り/鈴木春信また、生産について、苧麻は繊維をほどいて織り上げるという工程を分業化するのが難しく、非常に手間がかかり、同じ量の生地をつくるのに木綿の10倍の手間がかかるといわれます。この木綿の生産効率の高さと分業体制により、経済発展の気運と相まって一気に大衆化して行きました。こうした木綿の隆盛は、伊勢・三河・摂津といった綿産地の商人を大きく成長させ、日本の商業文化に変革をもたらしました。■藍の色、のれんの色木綿以前の麻生地への藍染めは絣などの織物が主流でした。これは、草木染めの麻生地への染まりがあまり良くない為、糸の段階から染めてから織りにより模様を表現しました。この糸の段階で染めるのを先染め、生地の段階から染めるのを後染めといい、この時代の糸績み 注2)や染色は家内産業で女性の仕事でした。木綿の普及が進むと、染まりが良く堅牢で衛生的な藍染めは重宝され一気に普及しました。その用途は多岐に渡り、衣服やのれん、大漁旗、火消しや鉄道職員の装束や制服にも用いられました。これは、藍で染めた布は堅牢度があがり、また防火性も備えていたことから、実用性の面でも高く評価されて重宝されました。(左)東都大伝馬街繁栄之図/歌川広重 引用元:東京都図書館日本の藍染めはその色味の美しい深さが特徴であり、藍甕(あいがめ)に浸して染めることを繰り返すことでその濃度が変わって行きます。その色の濃さによって名前がつけられており、一番浅い色の藍白から一番濃い色の留め紺まで一般的に「藍四十八色」 と呼ばれ48色にも及びます。のれんに於いては濃紺ののれんは手堅い商売をする店が掛けるとされ、多くの商店は濃紺に染めたのれんを掲げていました。淡い色の浅葱色などは出会茶屋 注3) などの遊興の場所に掲げられていました。この色を幾度も重ねることで透明感のある青を生み出す工法は、世界の主な天然藍のインド藍では表現できない深く美しい色となります。■木綿・紺屋の栄枯江戸の町が商業都市として発展する中で、木綿と藍染めの果たした役割は計り知れません。紺屋の存在は、町の機能を支えるインフラの一部でもあり、染めの技術はのれん文化の発展とともに広く浸透していきました。木綿の需要が高まると、それを育てるための肥料である干鰯の需要も急増し、九十九里では大規模な漁業が展開されるようになるなど、連鎖的に経済が発展していきました。こうした流れは、日本の経済構造そのものを変えるきっかけともなったのです。この様に、産業・商業が一気に発展した中で木綿の存在は大きく、またその加工に機能的な藍は重宝され、のれん文化もそれに伴い普及しました。この産業や商業の発展とのれんの発展は強く紐づいているのです。しかし、明治時代に入ると海外の安価な綿花が流入し、国内の木綿栽培は衰退していきます。また、藍染めも人工藍や化学染料の登場によって需要が減少し、大正期には天然藍を扱う紺屋の多くが姿を消していきました。日本の木綿と藍、そしてのれん。この三者は、日本の生活文化と経済の中で密接に関わり合いながら発展し、暮らしにかかせないものとなりましたが、やがて時代の流れとともに衰退の道をたどりました。注)紺屋:紺屋は小ロットの紡ぎ糸を染める地細工紺屋(散カセ紺屋)と商人相手に大量の染めを行う仕入紺屋に分かれていた。注2)蒅(すくも):日本の藍染めに用いる発酵染料で、藍の葉を乾燥・発酵させたもの。水を加えて約100日間発酵させることで染色に適した状態になる。これを灰汁や酒などと混ぜて建て、藍染めの染液を作る。注 3)糸績み:苧麻や大麻などの繊維で糸をつくることを「糸を績(う)む」という。注 4)出合い茶屋:江戸時代に男女の密会に使われていた茶屋。注)藍染めは日光に対しての堅牢度はそう高くはなく、浮世絵にも随所に登場する薄い色ののれんは、その褪色をしたのれんの色を描いているものもあるのではないかとも考えます。注) 現代の店先にかけられるのれんは多くが後染めであり、白生地を染色したものである。■参考図書・論文天半藍色 : 三木300年のあゆみ日本古代の色彩と染め木綿以前苧麻・絹・木綿の社会史世界のインディゴ染め藍 INDIGO阿波藍と三木文庫悪魔の染料:インディゴが変えた世界染色技法書を通してみた江戸時代の色彩に関する研究中国の民間工芸萬葉草木染め