藍染めは、明治期に「ジャパンブルー」と称され、日本を象徴する青として広く世界に知られました。しかし、藍は日本だけの文化ではなく、古代から世界各地に存在していました。では、異なる文化圏ではこの「藍」はどのように受け止められ、使われてきたのでしょうか。世界の藍染めの歴史をたどりながら、日本の藍染めの独自性について見ていきます。 世界の藍染めの歴史藍は人類最古の染色技術のひとつとされ、その歴史は6000年以上前に遡ります。最古の痕跡は南米・アンデス文明の遺跡から見つかっており、そこでは藍染された綿布が確認されています。また、インダス文明(約4500年前)の遺跡や、古代エジプトのミイラにも藍染の布が巻かれていたとされており、藍は特別な染料でした。これは、自然界にほとんど存在しない「青」が古代の世界では非常に貴重で神聖な色であった為です。その後のヨーロッパで6世紀ごろからアブラナ科の植物である「ウォード(大青)」を用いた青染めが普及し、人々は青色を手に入れて行きます。とくに12世紀以降は染色技術が向上し、毛織物や絹織物に鮮やかな青色をもたらすようになり、青は貴族社会において流行し、服飾において重要な色彩となっていきました。フリードリヒ2世の挿絵(1194-1250)そして、16世紀以降、インドから輸入された「インディゴ(インド藍)」が登場すると状況が一変します。インディゴは発色が鮮やかで扱いやすく、ウォードに代わる染料として急速にヨーロッパの市場を席巻しました。この動きに対抗しようと、各国ではインド藍の輸入を一時規制する動きもありましたが、最終的にはその利便性と品質が評価され、インディゴが染料の主流として定着していきます。その背景には、1492年のコロンブスによる新大陸発見を皮切りに、スペインやポルトガルが中南米での藍の生産を本格化させたことがありました。さらにイギリスも北米南部で藍の栽培を拡大し、藍は世界各地で巨大な産業となっていきます。ただ、この時代の藍の生産は、大規模農園での過酷な労働によって支えられていた歴史的背景があり、植民地経済の暗部としても語られるべき側面があります。18世紀以降、イギリスはインドへ進出し、藍の生産をさらに推進。インド藍は安価で品質も高まり、19世紀には世界の天然藍の約8割を占めるほどになりました。そして、藍染めの広がりは、産業革命とも深く結びついていきます。綿織物の流行とともに、藍染は大量生産に適した染料として定着し、世界の染色産業を支える存在となったのです。世界の藍「藍」とひと言で言ってもその種類は麻同様に多くあります。そもそも「藍」とはインディカンという青色色素を含む植物の総称であり、主なものですと、日本で代表的な蓼藍は蓼科の植物、大青はアブラナ科、琉球藍はキツネノマゴ科、インド藍はマメ科の植物であり、それぞれ加工方法と染め方も変わります。とりわけインド藍は、インディカンの含有量が高く、染色性・保存性・輸送性に優れていたため、世界的な市場をほぼ独占するに至りました。また、アフリカ・中央アメリカ・インド・東南アジアと広く分布することも一因でした。 世界各地の藍の分布図。引用元:世界のインディゴ染め藍染の方法もさまざまですが、代表的な技術は「発酵建て」です。発酵建てとは、藍の葉を発酵・還元させた液に布を浸し、酸化させて色を定着させる方法で、化学反応を応用したものです。藍染めは古代にその染め方が確立されましたが、化学の知識を持たない当時の人々が、本来青くない葉が何かの弾みで灰汁などのアルカリ性物質が加わることにより、鮮やかな青になることを偶発的に発見したのだと考えられてます。広義では蓼藍・大青・山藍・インド藍、いずれも発酵建てではありますが、その建て方の細部は異なり、中国や東南アジア、ヨーロッパ、そして日本でも独自に発展し、各地の気候や素材、染料によって異なる手法が生まれていきました。 他の染色方法には、藍の葉を水に漬けて撹拌し、染料成分を抽出・沈殿させて天然の顔料を作る「沈殿藍」や「藍錠」、あるいは生葉を直接摺りつけて染める原始的な方法など、地域や歴史に根ざした技術が存在しますが色の発色の良さは発酵建が群を抜いています。しかし、19世紀末にドイツで開発された合成藍の登場により、天然藍は急速に需要を失っていきます。とくに産業規模での染色においては、効率的かつ均一な発色を実現する合成藍の利便性が圧倒的であり、今日流通している藍製品の大半は合成藍に置き換わっています。日本の灰汁発酵建日本の蓼藍(たであい)の発酵建ては奈良時代以前に中国から伝来したものというのが通説です。中国では時代によって藍染めの変遷があり、古代から平安時代までは蓼藍、インド藍の双方が地域ごとに用いられ、安土桃山時代までは蓼藍の比率が多かったのですが、江戸時代に入り交易が活発になるとインド藍が主となり、紋様染めの藍印花布(らんいんかふ)が一気に普及しました。一方日本では蓼藍の灰汁発酵建が独自に発展をして行き、現代でも伝統等的な藍染めは蓼藍が多くを占めます。これは、のれんをはじめ旗・幟・着物まで藍染めの需要が急速に広まった中、蓼藍の灰汁発酵建ては、適切に管理すれば長期間染め作業が可能という需要と供給が相まって、藍瓶の温度管理の技術や原料の蒅作りなど、進化・普及したと考えられます。また、蓼藍の藍染めはなんども重ね染めをすることで色を濃くして行き美しく深い藍色へと染めて行きます。中でも褐色(かちいろ) 注4) という黒に近いほど深い紺は他に類をみません。江戸時代には着物や作業着からのれん、幟(のぼり)から和紙まで様々なものに藍は広がり、明治時代に藍に溢れる街を訪れた欧米人にその青は強く印象づけられ、「ジャパンブルー」と称されるようになったのです。 世界にとっての青と日本にとっての青青という色は、古代から多くの文化において特別な意味を持ってきました。古代エジプトでは、青は天を象徴し、王族だけが身にまとう色とされ、北欧神話では主神オーディンが青衣を纏い、中世のヨーロッパでは神の光と結びつけられました。その象徴として特に重要なのが「ラピスラズリ」です。この青い鉱物は、金と同等、あるいはそれ以上の価値を持っていました。それを粉砕して顔料とされた「ウルトラマリン・ブルー」は、限られた聖画や王の装束にのみ使われ、西洋や中東では、「青」は特極めて特別な色であり象徴的でありました。一方で日本の色彩観は西洋や中東とは大きく異なっていました。古代の日本では、色は象徴というよりも自然の一部として捉えられ、光の色を「アカ」「クロ」「シロ」「アオ」の4色で捉え、草木や鉱物の色を「アカネ」「タン」などと充てており、これは豊かな自然に恵まれた日本に於いて色は自然の一部であり、光の加減や時間の移ろいとともに感じ取るものとして捉えられてきました。一時は冠位十二階をはじめとした象徴性を持ちましたが、本来の日本にとっての色は十二単に代表される重ね色をはじめ、自然や移ろいを表すものでした。この様に色が中庸な価値観であった基盤の上で、藍は暮らしの中に自然に取り入れられ、また日本人に「青」は非常に好まれました。その理由は定かではありませんが、日本人の肌色に馴染み、自然の多い島国で暮らしの中での必然であったのかもしれません。のれんや衣服、道具、美術にいたるまで、日本の暮らしに寄り添っていた藍染めは、生活様式の変化とともに、次第に姿を消していきましたが、のれんに於いてはいまもなおその多くが藍色に染められています。現代でも風に揺れ、街を彩るのれんは、日本の藍文化を現在に継承しています。そして、その青は驚くほど自然に街と調和をしているのです。 左:東都大伝馬街繁栄之図(とうとおおてんまがいはんえいのず)右:日本橋三井タワー コレド室町時代を経て街は大きく変わっても、藍色ののれんは変わらず街を彩っている。注1) 藍建て:藍を建てるとは、藍の不溶性成分を還元して水に溶かし、布に染められる状態にする工程のことを言います。注2) 藍の摺り染め:生葉をすりつけることでも色はつきますが、色味は浅く堅牢度が低くあります。注3) ドイツの合成藍:18世紀に発明された人工の青色顔料で、プルシアンブルーとも呼びます。日本ではベルリンで開発されたことからベロ藍とも呼ばれ、浮世絵の青にも広く用いられました。注4) 褐色(かちいろ):黒に近いほど濃い藍色。「留紺(とめこん)」や「鉄紺(てつこん)」とも呼び、格式ある深い色合い、勝色という原担ぎから武士に好まれました。注5) 古代ヨーロッパの青:古代に於いてはゲルマン民族の象徴とされる野蛮の色とされ、赤をはじめとした暖色が好まれていました。しかし、12世紀に大青が普及して以降、青は神聖なものとして普及して行きました。■参考図書・論文天半藍色 : 三木300年のあゆみ日本古代の色彩と染め木綿以前苧麻・絹・木綿の社会史世界のインディゴ染め藍 INDIGO阿波藍と三木文庫悪魔の染料:インディゴが変えた世界染色技法書を通してみた江戸時代の色彩に関する研究中国の民間工芸世界から見た日本の青。浮世絵・フェルメール・ゴッホなんで人は青をつくったの?日本の色のルーツを探して色彩の宇宙誌