のれんは現代でも店の「顔」として、その空間の雰囲気やブランドの象徴として掲げています。商人が店舗の目印として印を染め抜かれたのれんは、時代を経るごとに老舗の象徴となり、やがては「信用」などの無形の価値を表す言葉やにまで広がっていきました。世界でも稀有な日本独自ののれんの概念は、どのように形成されたのでしょうか。 店のはじまりと、のれん日本で現代のような店が一般的になるのは鎌倉時代頃であり、それまでは、基本的に定期開催の「市(いち)」や移動型の行商が取引の主流でした。市が成立したのは、飛鳥時代後期から奈良時代にかけてと考えられており、律令制の制定のもと各地で物品や食品など物資の取引として市が行われていました。当時は貨幣文化が浸透しておらず、物々交換が主流でしたが、奈良時代から徐々に貨幣経済が発展していきます。ただ、それは貴族などの一部階層に限定されたものであり、庶民の間では長く物々交換が続いていました。平安時代末期になると、京都の町家などで人々が家の前に棚を設けて品物を並べるようになり、それが商品を見せる棚=見世棚(みせだな)と呼ばれるようになり、これが「店」の語源とされます。その後、鎌倉・室町時代を通じて経済の発展とともに、常設の店舗が形成され、次第に「見世」が「みせ」、そして「店(たな)」という語に転じていきます。鎌倉時代の定期市。織物や食料品などが取引されている。 出典元:岡山県瀬戸内市 一遍上人絵伝室町時代になると、都市部を中心に問屋や小売といった機能が分化し始め、商業が本格化していきました。この時代に商人の町屋に識字率の低い社会の中で直感的に店の情報を伝える手段としてのれんが掲げられるようになり、広告としての機能を帯びてきます。それが行く行くその店の信頼や格式を示す“顔”の役割を持つようになっていくのです。 江戸時代の豪商の誕生江戸時代に入ると、徳川幕府は貨幣の全国統一流通政策、五街道をはじめとする交通網、各宿場に馬や飛脚を配備する宿駅制度などの社会インフラを整備し、国内経済発展の基盤づくりに着手しました。また、参勤交代による各藩の大名たちの定期的な移動は、各地の特産品の流通や宿場町など中継地の発展に寄与しました。それにより、京都・大坂・江戸の三大都市のあいだでも交易が活性化することで経済循環が生まれ、各地で常設の店が街に次々と誕生していきました。1615年頃の京都の市中とその周辺。江戸時代に入ると常設の店にのれんが掲げられている。 出典元:e国宝 洛中洛外図屏風(船木本)江戸時代の初期では、依然として商業の中心は京都・大坂であり、近江商人をはじめとする商人たちが力を持っていました。しかし中期以降、政治の中心である江戸の人口が増加し、世界的な一大消費都市となると、江戸に拠点を置く豪商たちが台頭していきます。その代表格として名を連ねるのが「江戸の三大豪商」と称される、松坂出身で江戸に呉服の越後屋を開いた三井家、兵庫の酒造業が源流の鴻池家、京都で銅精錬を営んだ住友家の三家です。元々は地域の商店であったこれらの店は、近世では日本の商業を牽引する存在とまでなっていきました。中でも越後屋の創業者である三井高利はのれんを最大限に活用して商売を拡大し、のれん大きく発展させました。 三井高利とのれんの発展延宝元年(1673)、三井家の八代目にあたる三井高利(たかとし)は呉服屋の「越後屋」を江戸・日本橋に開店しました。三井の商いは「京商人・江戸店(だな)持ち」と呼ばれ、京都で仕入れて、江戸で販売するという分業でした。当時の江戸は消費都市として急成長しており、全国から商品を集積・販売する「江戸店」の原型でもありました。高利は優れた商才を持つ実業家であるとともに、現代でいうマーケティング的な視点を備えた革新的な商人でした。従来、呉服屋は馴染みの顧客宅を訪ねて価格交渉を行い、期末に一括で支払う方式が一般的でしたが、三井高利は「店頭販売・現金払い」とし、また値引き交渉を前提に高めに値付けをする「掛値」をせず定価販売にしました。その結果、贔屓の武士だけでなく、市中の裕福な町民をはじめとした不特定多数の顧客を獲得し、一気に拡大しました。出典元:三井高利と越後屋 「駿河町越後屋正月風景図」鳥居清長筆当時の屋外広告は、木看板やのれんが主であり、のれんは貴重な媒体でした。高利はここに着目し、のれんに自店の屋号を大きく染め抜くだけでなく、上記の著名な商法の「現金掛け値なし」といった謳い文句を染めることで、のれんを情報伝達とブランディングの手段として最大限に活用しました。これは、それまでのれんが単に店の存在を示す目印だった段階から、識字率が向上した時代の「広告」として進化した象徴的な事例であり、これを見た他の商店もこぞって真似、広告として普及しました。高利はそれまでの商習慣の常識を覆した手法を取り、またのれんを広告として大きく活用したことで、のれんの進化・普及にとって大変重要な人物なのです。 「のれん分け」のはじまり商店が商売の拡大とともに多店舗展開を始め、「のれん分け」の制度も次第に確立されていきました。「のれん分け」とは、長年にわたって忠実に勤めた従業員や番頭に対して、商売の権利やノウハウ、そして店の信頼=「信用」を引き継がせ、独立開業を認める制度です。このとき、文字通り本店の屋号や家紋が染め抜かれた「暖簾」を渡され、それが正統な証とされました。この頃から、のれんとは単なる布ではなく、そこに染め抜かれた屋号や家紋が、その店の歴史や信用などの無形の価値を象徴するものとなって行きました。しかし、この当初の「のれん分け」の制度には同時に厳格な制約が伴いました。のれんを譲られた者には本家の威信を損なわない様に厳しい誓約が求められ、たとえば、本家と同業種での商いを行う場合は、商圏や仕入先・得意先の重複を避けるよう制限されることも多く、またその契約は一代限りではなく、子や孫の代まで拘束力を持つこともありました。特に大規模な商店であればあるほど、「のれん」の持つ重みは増し、厳しい制約がありました。つまり、当時の「のれんを継ぐ」とは、信用という目に見えない資産を継承して守り抜くという精神的継承でもあり、とても重いものであったのです。 のれんが価値の象徴へ商店の多店舗化も一層進み、経済が発展するとともに、それまで士農工商の最下層とされていた商人階級が大きな影響力を持ち始めます。商人の台頭に伴い、物を売るという行為だけでなく、信用・信頼・歴史・名声などと社会との関係性はより重要になりました。そして、この無形の“目に見えない資産”を象徴するものが、「のれん」となったのです。「のれん」という言葉は、大正時代に吉田良三氏が著書の「会計学」 において17世紀に欧米で生まれたGood will(営業権などの無形資産を表す会計用語)の訳語として暖簾を使用し、それが定着しました。信用・名声・知名度などの無形資産を日本語で表すことにのれんがしっくりくるというのは、それほど暖簾が持つ信用は強かったのだと考えます。当初は漢字表記でしたが、会社法の制定により、2006以降は「のれん」とひら仮名での表記となり、主に軒先に掲げるものは漢字表記、会計用語はひらがなでの表記で多く棲み分けがなされています。この様に、江戸時代の老舗が屋号や家紋を染め抜いたのれんは、物理的な「顔」に留まらず、その店の誇りや信用を象徴する概念となり、その価値は現代へ引き継がれています。■参考図書・論文三井高利と越後屋日本商業史フランスにおけるのれん概念と欧州の会計調和化会計用語としてののれんの概念について江戸時代の商業序論わが国におけるのれん会計の背景英米、法におけるグッドワイルの概念について商標の譲渡とグッドウィル英米法におけるグッドワイルの概念について英国におけるのれん概念の変化に関する史的考察グッドウィルの研究扁額集中村 新1986年東京生まれ。有限会社中むら代表取締役。 大正12年から平成17年まで着物のメンテナンス等を請負っていた家業の中むらを再稼働し、平成27年よりのれん事業を開始。日本の工芸や手工業の新たな価値づくりに挑戦しており、職人やクリエイターとともにのれんをつくるディレクターとして活動。