日本において「のれん」は、商いにおける信用や理念、そして時間をかけて築かれた無形の資産を象徴する存在として育まれてきました。中国や西洋における看板が情報伝達を重視してきたのに対し、日本ののれんは、精神的・文化的な意味を帯びながら独自の進化を遂げてきました。こののれん文化は、これからの時代にどのように移り変わっていくのでしょう。 日本の「老舗」のれん文化を長きに育んできたのが、日本における「老舗」の存在です。のれんが社会に根付き、世代を超えて掲げられてきたのは、受け継ぐものとして代々のれんが機能してきたからであり、また老舗にとってものれんは重要な象徴でした。日本の「老舗」がいかに稀で、かつ世界で突出しているかは数字として表れています。現在日本には、創業100年を超える企業が3万社以上存在するとされ、京都などには300年以上続く老舗も珍しくありません。中むらもまた、大正12年に創業し、100年を超える歴史を歩んできました。これは世界的に見ても圧倒的な数字であり、全世界の比率でみても創業100年以上の企業が40%超、200年以上ともなると60%を超えます。日本にいると当たり前にある老舗ですが、実は世界的に見ると極めて尊い、誇るべき文化なのです島国である日本は、他国に比べて諸外国の干渉が少なく、安定した時代が長く続けられ、商家が同じ土地に根を張って信用を積み重ねることができました。中世から近世にかけて、都市部では商業が急速に発展し、身分を問わずほとんどの店がのれんを掲げており、のれんは一部の特権階級に限られたものではなく、庶民をはじめとする誰もが掲げることを許された「市井の文化」であったという点が、のれんの発展や文化の定着に於いて、とても重要なことでした。出展元:周年事業ラボ 2020年版100年企業<世界編> https://consult.nikkeibp.co.jp/shunenjigyo-labo/survey_data/I1-03/のれんを守るということ日本では店を続けて行くことを、「のれんを守る」と言い表し、そこには単に経営を引き継ぐ以上の意味が込められています。その店がこれまで積み重ねてきた「信用」や「実績」、さらには「理念」や「哲学」といった精神的な価値を、未来へ継承していくという覚悟が込められており、経営者としての責任を背負うことを意味します。家業の継承という観点では西洋にも長い歴史があり、特にドイツやイギリスでは、製造業や農業の老舗の数が多く、家族経営による職人文化が現在も力強く息づいています。しかし、そこで重視されるのは「家」の存続、すなわち血縁による経営継承が基本となっている印象があります。それに対して、日本の「のれんを守る」文化は、必ずしも血縁に限りません。かつては番頭が店を継ぐこともあり、血のつながりよりもその店の思想を継げるかが重要とされてきました。家の名前だけでなく、その中に込められた精神性を守り継ぐことが日本におけるのれん文化の核にある価値観なのです。江戸時代の「のれん分け制度」では、のれんそのものを譲ることが、本家の信用を移譲する象徴的な行為でした。現代では、のれんそのものを物理的に渡すことは少なくなりましたが、たとえば和菓子の老舗「虎屋」では、全国どの店舗でも同じ仕様ののれんを掲げることで、虎屋ブランドの統一感と信頼性を保ち続けています。一方で、多くの老舗経営者は変えないことがのれんを守ることではないと語ります。「虎屋」の黒川光博会長も、「守らなければいけないものというのはいつの時代も同じで、お客様がその時に心地良いな、おいしいな、と思ってくださるものをご提供できればいいのであって、それだけは大切に守っていきたい。」(暖簾考01)と話され、私が話を伺った老舗の経営者の方々も一様に時代と共に変化しながらも、変えてはいけない芯を保ち続ける。その両立こそが、のれんを守るということの本質であると話され、日本の老舗の哲学なのです。 個人の象徴としてののれんそれでは、「のれん文化」はこれからの暮らしで、どのように変容していくのでしょうか。のれんが新たな文化として意味を持ち得るためには、商業的なサインとしてではなく、暮らしの中に息づく道具としての価値が改めて見出されることが必要だと考えます。もしかしたら、「個」を示すものとなって行くことで、新たな可能性が広がるのではないでしょうか。現代は個人が各々のメディアを持ち、自らの思想や世界観を発信できる時代です。職人、芸術家、研究者、料理人、漫画家などが、自らの技術や思想を「個」として社会に提示し、その信頼や影響力を築いています。こうした時代において、のれんは個人が自らの理念を示す印として機能し得るかもしれません。たとえば、自宅の一角に、自らの思想や信念を染め抜いたのれんを掲げる。これは、誰かに対して何かをアピールするためではなく、神棚のように自分自身の内に向けて自らの芯に立ち戻る精神の拠り所としてのものです。画像:中むらと現代美術家ミヤケマイ氏のコラボレーション作品。また、日本の文化の深層へ、これからの世代が家にかけたのれんを通じて思想や工芸などの日本の文化に触れるきっかけにもなり得ると考えます。日本の風土の中で培った自然との距離、風にゆらぎ曖昧に仕切る境界に落ち着きを見出す空間観。のれんは、日本人の深層にある美意識や精神を多分に含んでいます。自分ののれんを持つということで、のれん文化が育まれる。そんな、未来の新しいのれんとの関わりが生まれることを願います。■参考図書・論文三井高利と越後屋日本商業史フランスにおけるのれん概念と欧州の会計調和化会計用語としてののれんの概念について江戸時代の商業序論わが国におけるのれん会計の背景英米、法におけるグッドワイルの概念について商標の譲渡とグッドウィル英米法におけるグッドワイルの概念について英国におけるのれん概念の変化に関する史的考察グッドウィルの研究扁額集中村 新1986年東京生まれ。有限会社中むら代表取締役。 大正12年から平成17年まで着物のメンテナンス等を請負っていた家業の中むらを再稼働し、平成27年よりのれん事業を開始。日本の工芸や手工業の新たな価値づくりに挑戦しており、職人やクリエイターとともにのれんをつくるディレクターとして活動。